必ず光があります!! 第二室戸台風の経験から~~
皆さんは第二室戸台風をご存知でしょうか?
昭和34年~36年ごろだったと思います。
うさママは小学高学年。
うさママのすんでいたところは水害常襲地帯。
毎年のように洪水が押し寄せてきて、作物を押し流し、家も何もかも水浸し。
残るのは泥の山と借金だけでした。
ひどい年は、夏から秋にかけて、畳は敷かず、床にござを敷いて生活しました。
第二室戸台風の時は悲惨でした。
台風がものすごく、そうでなくても水があふれてる最中に、上流のダムは放流をしたのです。
私たちの地域は、都市部を守るための堤防より、放流地帯となっていたのです。
見る見る水かさは増していきます。
母と私たち5人の子どもは必死で、畳や家財を二階に上げていました。
そんな中で、父は、当時営んでいた養鶏業の鶏を、一羽でも助けようと、
バタリー(鶏舎)を破ろうとしました。
「おとうちゃん、もうあがってきて~~!!」
「はしごが流れる~~!!」
と叫ぶ、私たち子どもの声も聞こえぬかのように、首まで泥水につかっている父は、
男泣きに号泣していました。
私は父のそんな姿を始めてみました。
あのように、男泣きに泣く父を見たのは、後にも先にもその1回だけでした。
水は床上から、二階にと駆け上がり、全てを流していきました。
私たちは天井ににげました。
家族の命だけは助かりました。
でも、米も無く、残ったのは家と、漂流物と、泥にまみれた田んぼと、多額の借金でした。
父は、母に、一家心中しようと言ったそうです。
でも、母は、死ぬなら、あんた一人で死にな!!と一括したそうです。
そのあと、父は工場に働きに出ました。
母も土方仕事やら、何やらいろいろやって働きました。
私たちは、奨学金が取れなければ高校進学は無理と言う状態でした。
幸い、特別貸与の奨学生となり、高校へは進学できましたが、制服を買うお金がありません。
母が、分割払いを頼んでも、店は受け付けてくれませんでした。
奨学金の出るまでの3ヶ月間、つらかったです。
でも、両親はもっとつらかった。
そんな状況から、私たちは立ち上がりました。
火事で実家が全焼すると言うこともありましたが、何とか乗り越えられました。
今はそれぞれに、家庭を持ち、孫のいるものもいます。
被災者の方々、命さえあれば、生きてさえいればなんとかなります。
多くの方が、家族も家も財産もずべてをなくされました。
しかし、幸いにして、命を与えられた者として、精一杯生きようではありませんか。
何度も襲った台風でも、多くの方が命を落とされ、全てを失われました。
でも、生かされたものとして、今まで生きてきました。
経験は違うとは思いますが、がんばりましょう!!
やまない雨は無い!!
明日もまた、陽は昇る!!
心からのお慰めとともに、エールを送ります!!